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七夕の由来と短冊はいつからなのか?願い事は何を書く?誰が叶えるの?

七夕

七夕と言えば織姫と彦星が1年に1度会える日というのが、子供のころに聞いた話ですよね。

でも、七夕という言葉や恋人同士が会う日というのはいつごろから始まった話なのか?

なぜそんな日に願い事を短冊に書くのか?その願いを叶えてくれるのって誰なのかなどの疑問に思ったことありませんか?

子供時代には、なぜという感覚はありませんでしたが、大人になってみると不思議なはなしですよね。

やっぱりこの話が出来た背景なども知りたくなります。同じように疑問に思っているなら調べましたので、参考にしてください。

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七夕の短冊の由来って

七夕のお話には笹に短冊や飾りをつけるなどが全然でてこないのに、どうして短冊を下げるようになったんでしょうね

 

奈良時代に遣唐使が中国より持ち帰った神話の一つが七夕のお話です。神話だけでなく、中国で行われている風習も一緒に持ち込まれました。

 

それが、乞巧奠(きこうでん)というもので、織物や裁縫が上手な織女にあやかろうと、庭先の祭壇に供物の他、五色の布や糸、そして七本の針に糸を通して、星に上達を祈る風習です。

 

日本に入ってきても、最初は七月七日に宮中の庭で詩を作っただけでしたが、時代が進むにつれて、乞巧奠が恒例行事になってきました。平安時代中期のころになると、貴族の家などでも行われるようになりました。

 

乞巧奠とともに詩が作られ、それを梶の葉に書いていました。

 

なぜ、梶の葉だったのかは紙が貴重なものだったということもあるでしょうが、梶の木は神聖な木とされていて神事に用いられたり、供え物の敷物に使われていたからではないかといわれています。もう一つの説もありますが、それはまた別の機会に。

 

平安、室町時代は天皇や貴族などでしかやっていなかった七夕行事ですが、江戸時代中期になって寺子屋が増えたことによって庶民も手習いの上達を星に祈るようになりました。最初はやはり梶の葉に願いを書いていましたが、それが紙の短冊に変わって行ったのです。

 

梶の木は神社などに植えられていて、勝手に採ってくるというわけにもいかなかったし、梶の葉売りが七夕近くには売り歩いていたそうなんです。梶の葉と紙ならどちらが安かったんでしょうかね。

 

また、飾りつけにいろいろ作っていたので、色紙が手に入りやすくなったのかもしれません。

そのあたりの文献を探したんですが、見つかりませんでした。

七夕の短冊に願い事は何を書く?

七夕の始まりである乞巧奠では、機織りや裁縫の上達を願っていましたが、時代と共に習い事などの上達を願うようになり、今では恋愛関係のお願いが多くなっているようですよ。

 

中国では七月七日は、中国版バレンタインデーと言われているそうで、恋人たちの日になっています。

 

七夕の企画としてスーパーなどで子供たちに短冊にお願いを書いてもらうというのがありますよね。子供たちが小さいころは参加していました。自分の子のお願いの短冊を笹につけながら他の子のもチラッと見てみると、クリスマスと間違えている?というようなプレゼントのお願いが多くて、子供たちにとっては七夕とクリスマスは同じようなものなのかとちょっと笑ってしまいましたよ。

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他にも大人が書いたであろう短冊もありましたので、記憶に残っている物を書きだしてみました。

「頭がよくなりますように!」「お金持ちになりますように」「試験に合格しますように」

「無病息災・家内安全」「世界平和」「健康一番」「宝くじが当たりますように」「百歳まで生きたいな」

「家族が健康でいられますように」「景気回復」「婚活が上手くいきますように」「赤ちゃんができますように」

 

習い事の上達とかに今はこだわらないで、何でもお願いしてみるという感じになってきているようですね

七夕の願いは 誰が叶えるの?

七夕のお願い事は誰が叶えてくれるのかというと、七夕伝説を思い出してください。日本のではなく中国の伝説です。

中国の七夕のお話は何パターンかありますので、簡単なあらすじです。

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天に西王母の娘の織女がいます。美しく手先が器用なので機織りの仕事をしていました。一方、地上には牽牛という牛飼いの青年が住んでいました。

ある日、牽牛の飼っていた牛が突然口を利き、「天女たちが湖に水浴びに来た時、岸に脱いだ衣を隠しておけば、織女と結婚できる。」と言いました。

水浴びを終え、天女たちが次々と空を飛んで行きましたが、牽牛が牛の言うとおりに衣を隠したので、織女は地上に残り、牽牛と結婚しました。
その日から、牽牛は畑仕事、織女は機織り仕事をし、やがて一男一女が生まれ、幸せに生活していました。

しかし、天界の西王母にこの事がしられ、西王母は天兵を派遣して、織女を天宮に連れて帰りました。

牛が「自分死んだ後、皮を剥いで靴を作って、その靴を履けば天界に上がることができる」といいました。

その靴を履いて子供たちを抱え牽牛は追っていきますが、西王母が銀のかんざし簪で一線を書くと、大河ができ、牽牛と織女は両岸に別れ別れになってしまいました。

牽牛は織女に会いたくて、会いたくて何度も対岸の織女を求めて叫び続けました。
それを聞いた、さすがの西王母も情けをかけ、毎年の七月七日だけは二人が会うことを許したのです。

7月7日の夜、カササギの大群が翼を並べて天の川を渡る大きな橋を作り、牽牛と織女はそこで会うことができることになりました。
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このお話に出てくる西王母というのは、王母娘娘とも呼ばれる中国の神話の中で女神とか女仙人と言われている人です。

 

その娘が織女なので、やはり神か仙人ということになりますよね

神様や仙人様ならどんな願いもかなえてくれるのではないでしょうか?

さいごに

七夕の短冊は、宮廷での七夕の詩を書きつけた梶の葉から始まって庶民が風習として七夕をやるようになったころには願いを書く五色の短冊になったということです。

 

なぜ短冊を笹に飾るようになったのかということを文献から探していると歴史って面白く奥が深い。

 

また、歴史や民俗学の先生が、仮説をたてて論文をだすと、それがいつの間にか歴史的事実になってしまっていることに気が付きました。反論している人がいたので、根拠をさがしてみたら、はっきりとしたものが無いと言っている人の論文にたどり着くという感じです。

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