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節分はいつから始まったのか?節分や鬼と豆まきそれぞれの起源って?

節分

日本の伝統行事と言われている節分ですが、鬼退治、豆まきなどをするのは知っているけど、どういった経緯で始まった物なのかとか、何故?鬼退治ってことになったのか?豆を鬼にぶつけて逃げるのはなぜなのか?等子供に聞かれて答えられましたか?

私は、子供たちが小学生のときに聞かれて答えられませんでした。

ちょっと悔しいので、図書館にいって書籍を読みまくってなんとか説明できたんです。

幼稚園に通っていた時には、「悪い鬼がいるから豆をぶつけて追い出そう」なんて言葉で誤魔化していましたが、小学校高学年になるとそれもできなくなったので、難しい言葉が多かったけど、それなりに理解してくれました。

そんな私のようなお母さんがきっといるでしょうから、私が調べたものをこちらに書いておきますので参考にしてください。

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節分っていつから始まったの?起源はどこ?

鬼退治をするような行事は飛鳥時代に、原型となったものが、遣唐使によって中国の唐から伝えられて、それが日本で独自のやり方に変わり、現在の節分の形になったんです。

原型となった物とは

紀元前の周の時代から大儺は行われていたようですが、時代によってやり方が多少違っているようです。

飛鳥時代に遣唐使が唐から持ち帰った資料が基になっているので、唐の時代に行われていたやり方です。

●どんな行事
大儺(たいな)の礼
一年の終わりに疫鬼を追い払い、新しい年を迎える行事

●疫鬼って

疫鬼(えきき)は、中国に伝わる鬼神あるいは妖怪。疫病を引き起こすなどして人間を苦しめる。
姿は見えない。

●どんな人達がいた

・方相氏という神に扮装した人
背が高く堂々とした体格である者で、黄金の四つの目をした仮面つけ、熊の皮をかぶり、黒い服と赤い袴を身につけ、右手に矛、左手に盾を持つ

・侲子(しんし)(12~16歳)
女の子は赤い頭巾を被り、黄色の袴をはき、男の子は黒い冠を被る

・詞を唱和する者
面をつけ、皮衣を着て棒を持ちます。

・鼓を打ち鳴らす者

●その人たちはどんな事をしたの?

役人が皇帝の前で開始を告げると、方相氏が矛と盾を上げ、詞を唱和する者が「侲子」を率いて儺の詞を唱和します。
大声を上げ、鼓を打ち鳴らしながら疫気を追い、宮城の門から出て城門まで行き門の外に疫気を追い出して終わります。

●方相氏ってどんな人
次のように伝えられている。
黄帝の二番目の后が最初の方相氏で彼女は醜かったが徳を持っていため妃に迎え入れられた。
第一の后が亡くなった時に黄帝が祖神として祭り、二番目の后に守らせたのが方相氏の始まりです。
後に方相氏は険道神、開道神と呼ばれる死者の棺を守護し、出棺の先導をする神となった。

これに関連しては、中国の唐代に怪異記事を集録した書物『酉陽雑俎』に、「方相氏は棺に先立って墓に入り矛で四隅を撃って魍魎を駆逐する」と書かれている。

日本で節分にまでなった経緯は?

大儺が文献に出てきた時期
文武天皇の時代、慶雲3年(706年)に疫病がはやり多くの百姓が次々と死んだため、「土牛」を作って疫気を祓ったという事が「続日本書紀」に出ています。

「続日本書紀」に書かれていた文章「是年、天下諸国疫疾、百姓多死、始作土牛大儺」

土牛を使う儀式は古代中国の礼記に「土牛を作りて寒気を送る」とあるのを参考にして、陰陽師によって日本独自のやり方が平安時代の頃にできたようです。

大寒の日に宮中の12の門に12組の土牛童子を立て、立春の前夜半時に撤去します。

この土牛を作って疫を祓った年から方相氏が儀式を行う大儺が始まったのかは分かっていません。

●どんな行事

一年の最後の夜に邪気を全て祓い、清浄な状態にして新年を迎える行事

●何を追い払っていたの?

目に見えない鬼

鬼とは、疫病や災いなどを持ち込む悪いものだという認識だが、目には見えない存在。

●どんな人達がいた

・方相氏
大舎人の中から身長が高く堂々とした体格の者が1人選ばれ、黄金で四目の面をかぶり、黒い衣と朱裳を身に着け、右手に矛、左手に盾を持っています。

※金色の仮面に4つの目があることを想像するでしょうが、面に金色の目が4つです。

・侲子(しんし)
官奴から選ばれた20人の童子は紺の布衣と朱の鉢巻を着ける。

※官奴とは奴隷のようなものです。

・陰陽師
儀式で祭文を読む人

・下級官吏
中務省の侍従・内舎人・大舎人
桃の弓と葦の矢をもっている。

※中務省とは政府機関のようなところです。

・斎郎 
陰陽師から任命されて、斎場(儀式を行う場所)の供え物をする人。
神様に使えている男の人、儀式を手伝う人

・天皇
儀式を見守る

・王卿
※王とは、天皇継承のない男子皇族
卿とは太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議などの朝廷の高官

●その人たちはどんな事をしたの?

大晦日の夜の戌の刻(現在の19~21時)に、王卿以下が紫宸殿に着席したところに陰陽寮から桃弓と葦矢が王卿たちに配られる。

天皇が紫宸殿に出てきたところで、儀式が始まる。

中務省の官人を筆頭に侍従、内舎人、大舎人たち、続いて陰陽師が率いた斎郎たち、方相氏、侲子たちが紫宸殿前庭に整列する。

斎郎が供え物をし、陰陽師が前に出て祭文を読み上げる。

陰陽師の読み上げが終了すると、方相氏が大きな声をあげながら、矛で三回、盾を打つ、それを合図に群臣が唱和して4つの門に分かれて疫鬼を追いかけ門の外にでて京職に引き継ぐ。

方相氏と侲子は、4つの門それぞれを通り、最後に北方の門まで疫鬼を追いかけ門の外に出て、京職と共に疫鬼を追いかけて都の外まで練り歩きます。

●大儺がいつ追儺になったの?

方相氏や侲子たちが鬼を追いかけている様子から大儺ではなく追儺と呼ばれるようになりましたが、文献等では、大儺だったり追儺だったりしていました。

それは、内裏式と貞観儀式では大儺と書かれていて、延喜式で追儺がでてくるようになりましたので、平安時代中期ころには追儺と呼ばれるようになったようです。

※恒例の行事と臨時の行事についての儀式次第が書かれている。

『内裏式』(だいりしき)平安時代前期に編纂された日本最古の勅撰儀式。全3巻。(821年成立)

『貞観儀式』(じょうがんぎしき)平安時代前期の貞観年間に編纂されたとされる儀式(儀式書)全10巻。(875年成立)

『延喜式』(えんぎぎしき)平安時代前期延喜年間に編纂されたとされる儀式。(927年成立)

●宮廷以外が大儺をやり始めたのはいつ?

方相氏と侲子、京職たちが鬼を追って町を練り歩くことを町の人達は見ていて、真似をするようになったのではないかと思われています。

平安中期に出版された源氏物語の中にも紫の君や匂宮が追儺についての話がでてきています。

寛弘五年(1008年)出版源氏物語 
「紅葉賀」 →「儺(ついな)やらふとて、犬君がこれをこぼちはべりにければ、つくろひはべるぞ」

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「幻」 →「儺〔だ〕やらはむに、音〔おと〕高かるべきこと、何わざをせさせむ」

町人が始める前に貴族が自分の屋敷で追儺のようなことを始めていたのかもしれません。

この頃の町人は、子供たちが真似ているだけだったのかもしれませんけどね。

※京職(きょうしき)
裁判官と警察官と役所が一つになったような行政機関

●庶民が節分として始めたのはいつ?

こよみの二十四節気の始まりが立春です。

旧暦のころは、この立春が一年の始まりとなっていました。

節分というのは季節を分けることをいい、春夏秋冬の4つの季節を分ける日のことをさします。

現在残っている節分は2月だけになってしまいましたが、昔はそれぞれの季節の節分も大切にしていました。

それでも、春の節分だけは特別で、新しい年をお祝いしていたのです。

また、旧年と新年の境目には悪い物が忍び込んでくると思われてもいましたので、大晦日に疫を祓うことが行われてもいました。

平安時代後期から鎌倉時代にかけて戦がおおく、宮中では追儺をやることが難しくなったのか衰退していく一方で町人の間では大晦日の年越し行事として習慣化してきました。

また、寺院などで追儺が行われるようにもなってきたのが、平安時代後期になります。

壬生寺のホームページに書かれていたものです。
平安時代に、白河天皇にあつく信仰され、また、壬生寺が京都の裏鬼門にあたることから、天皇の発願によって、毎年2月に節分厄除大法会が始められた。

町民に追儺が広まってもまだ、年越し行事なんです。

追儺と節分が一緒になった時期が、文献等をみても曖昧でよくわからないのです。

江戸時代に出された「東都歳事記」には節分として豆まきの記述がありますが、年越しとしての豆まきになっています。

「今夜尊卑の家にてイリマメをうち、ヒイラギイワシの頭をコグワイ(戸外)に挿す。豆をまく男を年おとこといふ。
今夜の豆を貯へて、初雷の日、合家是を服してまじなひとす。また今夜いり豆を己が年の数に
一ツ多く数へて是を服す。世俗今夜を年越しといふ」

※東都歳事記 江戸時代の年中行事を書いた本 天保9年(1838年)

旧暦で生活していた人にとっては、冬に別れを告げる立春というのは新しい年を迎える事なんです。

二十四節気の最初が立春になるのも、その理由の一つになります。

そして、江戸時代中期まで年越しとしているということは、現在使われている暦になるまで続いたのではないでしょうか?

新暦に変更するときに明治政府が強行して明治5年12月3日を明治6年1月1日にしてしまったといことがありました。

このあたりに年越し行事と節分が一緒になった経緯があるのではないかと思っています。

節分の鬼の起源って

古代の日本では、見えないが恐ろしい存在や人に災いをもたらすものを鬼(キ)といっていました。

追儺では疫鬼(えきき)を追っていましたよね

そして、追儺の元である中国では鬼を、死霊や死者の霊魂のことをさしています。

どちらにしても見えないものですよね

「鬼」を目に見えないものという意味で隠(おぬ)と言っていたものがいつの間にかオニと言うようなったという説があります。

追儺にでてくる方相氏が鬼の起源ではないかという説があります。

方相氏が疫鬼を追いその後ろを群臣たちが続いている姿から、まるで方相氏自身が鬼であるかのように見えたのか?それとも見えない鬼を追いかけるより、実態があったほうがいいと考えたのか?平安時代後期のころから方相氏を鬼にして矢を射ったりするようになったようです。

 平安時代後期に書かれた『江家次第』には「殿上人長橋内ニ於テ方相ヲ射ル」とあります。

「(前略)方相、先ニ儺声ヲ作ッテ、以ッテ矛ヲ楯ニ三箇度叩ク。群臣相承ニ和呼シテ之ヲ追フ。方相明義・仙華門ヲ経テ北廊戸
カラ出ヅ。上卿以下、方相氏ノ後ニ随ヒテ御前ヲ度ル。瀧口戸ヨリ出テ、殿上人、長橋ノ内ニ於イテ方相ニ射ル。主上、南殿カラ密カニ覧テ、還御之時ニハ扈従人 方相ニ行キ逢フサヘ忌ム。(後略)」

鎌倉時代後期から南北朝時代初期に出された建武年中行事の中では「鬼は方相氏なり」と言い切っています。

和田英松の注解の本で下記の文章を見つけました。

我邦にては、続日本記に、文武天皇慶雲三年十二月、是年天下諸国疫病百姓多死、始作 土牛大儺 とあるを引きて、政治要略、江次第以下、追儺の始としたり。
左大舎人寮、頭一人、掌 左大舎人名帳、分番宿直、暇使容儀事 と見え、大舎人は、上に述べたり。
鬼は方相氏なり。延喜大舎人式追儺の條に、其方暇面一頭 黄金四目 被服赤・・・・

※建武年中行事は、後醍醐天皇によって書かれた宮中行事を月ごとに書かれたもので、漢文ではなく和文で書かれているものです。

節分の豆まきの起源は?

室町時代中期には豆まきが始まったのではないかと思われます。

室町時代中期に書かれた『臥雲日件録』の中の文安4年12月22日(1447年12月22日)に

「廿二日。明日立春。故及昏。景冨毎室散敖豆。因唱鬼外福内四字。盖此方驅儺之樣也。」と書かれています。

22日。明日は立春。黄昏どきに室内に豆をまいて鬼は外、福は内と唱えた。 (私が訳してみました)

平安時代の貴族は陰陽寮が作った暦のようなもので方位神のいる位置を把握していました。

方位神がいる方向に一直線に向かうことが出来ないので、一度違う方角に向かいそこで一夜を明かしてから目的の所に向かう「方違い」というものを毎日やっていました。

方位神というものは5つあって、それぞれに留まっている期間が違うので、一夜では済まない場合があったりと、かなり大変だったようですが、抜け道もあったようです。

数日で移動してくれる方位神ならいいのですが、1年間同じ場所に留まる方位神もいるので、その場合には家を建てるとか改築するなどの場合に困りますよね

その抜け道として、立春に一度、方違えになる方角に移動して一夜を明かしてから自宅に戻ればいいとされていたそうです。

とても面倒なことなので、追儺も廃れるころの室町時代には、簡単にすませるために、自宅の恵方の部屋に移るだけになったそうです。

その時に部屋に豆をまいて邪気を払ったそうです。

この方違えと豆で邪気を払うと追儺が一緒になったのが節分の豆まきの起源になっているようです。

食べ物を撒き散らす行為は散供(さんぐ)といって、下級の神霊に供物を供える一つの方法であったから、豆に限ったことではなく、また節分だけのことでもなかった。

『日本大百科全書』「豆撒き」の項目より

まとめ

節分は中国の大儺から日本の追儺になり、節分の統一されるまで1000年くらいかかっていますね

豆まきの起源も鞍馬山と言っている方もいますが、元々雑穀で邪気を払うことを昔の人はやっていたことなんですよね

雑穀の粟や稗のように細かいものを部屋に撒くと後が大変だから大豆になったのではないかと私は思っています。

今回改めて、根拠となる文献の漢文などを探してみて、もっと漢文をしっかり勉強しておけば良かったなと今更反省しています。

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